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2008年2月15日 (金)

人生は生きるに値する

昨日はどうも奥の院に呼ばれた(招いていただいた?)ような気持ちでいたのだが、気がつくと今日は常楽会だった。
涅槃会とも言う、お釈迦さんがクシナガラの沙羅双樹の木の下で入滅された日だ。

「常楽」は解脱され、涅槃(すべての迷いが吹き消された状態:あらゆる煩悩から解放された究極の悟りの世界)に至ったお釈迦さんの四つの徳性である「常・楽・我・浄」から、その前の二字「常楽」をとったもので、「常」は永遠に変わらぬ事、「楽」とは苦しみがなく安らかな事、「我」とは何ものにもとらわれず自由である事、「浄」とは一切の汚(よごれ)から離れた状態の事を指す。

現在は、死=涅槃、という解釈だが、ちょっとというかかなり違う。

ただし、お釈迦さん自身は弟子に対し、死後の世界の事は生涯一言も語る事は無かった。そんな事は死ねばわかる事で、それよりもこの世において「諸行無常」を見つめ、今、どうやって生きるかを考えなさい。というわけだ。
この、諸行無常についても、「この世は虚しいだけ」という消極的な意味ではなく、生きているものは必ず死ぬし、形あるものは必ず滅びるように、この世に存在するもので永遠に続くものは何一つないのだが、それは決して悲しむべき事ではなく「存在するものはすべて必ず変化する」という自然の摂理であり、それを積極的に受け入れ、その中で活き活きと暮らす道を見つけなさい。という事である。
よく「あきらめる」というが、あれは、「諦める」ではなく、「明らかに認める」という事なのだ。

つまり仏教とは、死後の世界を解説するものではなく、この世において「抜苦与楽(生きている人の苦を無くし楽を与える)を目指したものであり、「この世を生きるための智慧」だったのだ。

ところが、日本に於いては、もともとあった先祖崇拝や古神道の考え方と混ざり合った上、江戸時代に徳川幕府が人々を統制するために「宗門改め」を行い、必ずどこかの寺に帰属するよう「檀家制度」を強制した事から、仏教者は努力しなくても信者を獲得できるようになり、象徴的な儀式として「葬式」をメインに活動する事になってしまった。
これが現在、「葬式仏教」と揶揄される原因である。
真言宗もまた、「現世利益」が拡大解釈され、肝心な「真言」も「○○がうまくいくためのまじないの言葉」という、非常に刹那的な扱いを受ける事となり、その分、うさんくさいイメージを持たれる事になってしまった。

ともあれ、私は死を目前にしたお釈迦さんの言葉が好きだ。
最後の言葉はやはり『世はなべて無常である。そなた達は怠ることなく努力をするように』と、弟子達への薫陶なのだが、その前に、
『この世は美しい、人間の命とは何と甘美なものだろう』とも語っている。

人生は苦だ、それは認識としてだけ正しい、そして人はそれを避ける事ができない。
しかし、人はそれを乗り越えて行く事もできるはずだ。
もちろん、乗り越えられない、と明らかに認めるのも一つの道だ。

ほっといたって「死」は誰にでも訪れる、それまではせいぜいあがこうじゃないか。

人生は生きるに値する。

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